関ヶ原から島津越えを辿って

6月に岐阜から関ヶ原まで走った続き岐阜駅から旧春日村を通って関ヶ原まで - 緑の週末日記で、関ヶ原の戦いで島津隊が敵中突破して島津越えとして知られる伊勢街道を辿ろうと思い出かけてきました。


前回は時間がなくて余裕がなくて気が付きませんでしたが、ホームに関ヶ原の戦いの大看板がありました。


駅前の醤油工場の立派な黒塀と煙突を眺めながら、一本隣の伊勢街道に入り直進、2㎞ほど進んで坂を右に曲がりながら下ってゆくと・・・



徳川家康本隊の前を横切り伊勢街道を逃走する島津隊に、本多忠勝井伊直政隊が追い付き激戦となった烏頭坂(うとうざか)がありました。



決死で逃げる島津隊を思い浮かべながら上石津町牧田の街並みをゆっくり通り抜けました。



牧田川の土手を走っていると島津隊が越えた五僧峠のある鈴鹿山脈が見えてきました。



国道365号に並走する細い道を走ってみたのですが、



多仁林道と表示の出ている道を進み、上石津中学校の横を登ってゆくと



旧伊勢街道で正解でした。



登り切ると勝地林道との三叉路があり、左に進んだところが勝地峠(かつじとうげ)でした。島津軍はこの峠を越えて多良へ向かったそうですが、このあたりで追手も追撃をあきらていたようです。



石碑の横にある説明書きには関ヶ原戦いの17年前には秀吉も通ったと書かれていました。



さらに松尾芭蕉の句が刻まれた石碑もありました。さすが当時の伊勢街道です。(^^)



峠を抜けて平坦になった伊勢街道を走っていると上石津町宮の大神神社境内に2本の立派な杉がありました。


しばらく杉を眺め、道中の安全を祈願して参拝してきました。



西山地区にあったバス停の待合室にあった子供たちの書いた看板がありました。島津家の鹿児島から遠く離れた地で身近な存在になっているようです。



集落で見かけた風景ですが、かつては段々畑か棚田だったようです。
少し前にNHKが放送していた「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんの秋」というドキュメンタリーで、後継者のいない畑に木を植えて動物たちのために自然に返そうと作業をしているおばあさんの姿と重なりました。



ゴルフ場脇を抜けて下ると、いよいよ島津越えと呼ばれる五僧峠への道になりました。



秋の風景を楽しみながら向かい風を受けてゆっくり登ってゆくと



5㎞ほど進んだところで通行止めのゲートになりました。あらかじめ通行止めは確認していたので、途中になってしまいましたが島津越えを辿る旅はここまでになりました。
携行食で昼食を済ませて、一旦下り返して隣の峠となる鞍掛けトンネルに向かいました。



収穫直前の黄金色の田んぼを通り、



気持ちよさそうな木陰のベンチを見つけて


空を眺めながら昼寝をしたり(^^♪



田んぼの上空を気持ちよさそうに滑空しているトンビを眺めたりしながらののんびりツーリングです。
※ブログを書いていて気が付きましたが、ゆるく上空に伸びる竜巻雲っぽいのが写っていました。



鈴鹿越えとなる国道306号は、青空から急に雲行きが怪しくなり風向きがぐるぐる回り、向かい風では押し返されそうなぐらいの強風となり少々手こずりました。



馬返しというのはよくありますが、犬返谷というすごい名前の橋がありました。



なんとか最後の急坂を登って



鞍掛けトンネルに到着しました。旧峠はさらにトンネルの上にあったらしいですから、昔の人にとってはたいへんな難所だったのだと思います。



彦根市街に入り、石田三成の居城のあった佐和山を見てきました。



最初は国道8号佐和山トンネル側から行ってみたのですが、遊歩道となっている道は荒れ果てていて近づくことができず何だかなぁという感じでしたが、反対側には公園が整備されていて三成像がひっそりと奉られていました。

追伸・彦根駅ホームの観光名所の案内には井伊家が治めた彦根城が表示されていましたが、目と鼻の先にある佐和山は記載がありませんでした。国宝だからというのは分かりますが、司馬遼太郎さんの本を読んで西軍贔屓の私には、ちょっと冷たいように感じました。(^^;



とはいえ、せっかく彦根まで来たので黒門山道の下に自転車を置いて天守を見てきました。



時刻は18時近くで日没となり、そろそろ薄暗くなりはじめました。



琵琶湖がかすかに赤く染まるのを眺め、彦根駅から輪行で名古屋に戻りました。久しぶりの峠越えでくたびれましたが、歴史を辿る充実した一日になりました。